30代になると、今までのように「新人」という扱いは無く、当然のように「中堅」といった扱いになってしまいます。
それが今だからわかる様な事は一つ二つでなく、人の生死に関する事を一つとっても同様な事かもしれません。
私にとって「死」という事について、あまり深く考えた事がありませんでした。
むしろよく理解してない部分が多かったというべきでしょうか。
この時期になると、大学時代の教職課程の教鞭を執った先生を思い出します。
この先生は、私の出身高校(県立長崎工業高校)で校長だった方です。
私が在学した頃にはすでに定年退職しており、名前くらいしか知らなかった事を覚えています。
なぜ名前を覚えていたかと言えば、漢字が変わっていたから記憶に残っていたのです。
普通、「だいすけ」という名前は、「大介」や「大輔」といった名前が多い中、「大補」という漢字を書きました。
日頃から疑問に思った事を尋ねる私は、その先生に「なぜ大補」の「補は輔でないのか?」と何とも失礼な質問をしたのです。
そうしたところ、こんな答えが返ってきました。
私の名前が「補」であるのは、「大(ひろ)く補(たす)ける」という意味から「補」であるのです。
と私に教えてくれました。
人の名前の由来など関心を持つ事で無いのでしょうけど、先生は私にうれしそうに教えてくれた事を思い出します。
それから、前期の試験が終わり、後期になったところ、担当の先生が替わりました。
この先生は、同じく高校時代、進路指導教諭だったM先生が代打授業になりました。
残念ながらこの先生の授業内容はあまり覚えていません。
その後、口づてに「大補先生は夏に逝去した」事を知りました。
元々、この先生の体調が悪い事は知っていました。
ほかの授業に比べ、休講が多く、補講で行っていた事を覚えています。
前期の後半頃(確か夏前だったと思います)、ちょっと薬で髪が薄くなったから帽子をかぶっているが気にしないでくれ。
という事は、自分にとって何も気にとめる事無く過ごした事でした。
しかし、この時点ですでに「[w]抗がん剤[/w]を投与され、闘病中だった」事がわかったのはそれからずっと後の話です。
今思えば、工業高校の校長を退任後、大学で工業科教員育成のために教鞭を執り、病気療養しなければいけない中、最後まで講義を行い、亡くなった事は想像ができないほどつらい状況だったはずです。
前期講義という一区切りがついたところで、力尽きた。という事はそれだけに壮絶な人生だったのでしょうか。
自分が同じ立場だったらどこまでできるのか、正直わかりません。
「命を賭して最後までやり遂げる」という「責任感」が動かした事は言うまでもない事実と思います。
大学時代で記憶に残っている言葉の一つです。